▢登場時のキハ37(1983年~1987年)
国鉄キハ37形気動車は、1983年(昭和58年)に日本国有鉄道(国鉄)が製造した一般型気動車です。製造量数は5両。5年後の1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化が実施される自体があり、新しくコストパフォーマンスの優れた次世代型エンジンが期待され、国鉄で初めて直噴式過給器を備えた新規の機関(DMF13S形)が開発されました。
車体は全長19500mm,車幅2800mmの旧来からの車体寸法になり、客扉は1000mm幅の2個が変則的に配置されました。ドアと窓配置は1dd7d3で、客ドア直後の戸袋窓はなく700mmの客窓から7個の930mm幅のユニット式窓が並びます。その後はドアがあり、930mmユニット窓が2個連なり700mm窓が最後に来ます。
本製作品は久留里線に配置されたキハ1002,1003をモチーフに製作されました。 1986(昭和61)年にキハ37の後継機=姉妹機のキハ38は新製されましたがキハ37が5台、キハ38も7台と全くの少数派で終わりました。その後の特定地方交通線を転換した第三セクター鉄道に於いてこのDMF13Sと同型エンジンが、第三セクターの為の礎を築いた点で特筆すべき車両といえます。新造時の塗色は赤11号(急行形気動車の窓周りの赤と同じ色)一色で、キハ40系などの在来の一般形気動車に施されていた朱色(朱色5号)とは色合いが異なっています。0番台(便所あり)
- キハ37 1(新潟鐵工所), 2(富士重工業)、1000番台(便所無し) - キハ37 1001(新潟鐵工所), 1002, 1003(富士重工業)で製造されました。
▢木更津配置以後のキハ37(1988年~2013年)
木更津配置の3両は、久留里線および木原線で使用され、JR東日本に承継されました。1988年(昭和63年)に木原線は第三セクターのいすみ鉄道に転換されたため、以後、全車が久留里線のみで使用されました。同線専用となったことで、東京湾アクアラインをイメージしてクリーム1号の地色に太さの異なる複数の青15号の帯が入る、初代久留里線色に変更されています。1996年より塗装が2代目久留里線色へと順次変更され、1999年からは冷房化と機関換装が実施されました。また0番台の2については便所が閉鎖されました。
久留里線内では基本的に本形式のみでの運用はなく、キハ38形(1996年に八高線より転入)との共通運用で、キハ30形とも併結して運転されましたが、2012年(平成24年)12月1日をもって久留里線の全車両がキハE130形100番台に置き換えられ、運用を終了しました。
その後、同年12月11日から12日にかけて3両とも新津へ配給輸送され長らく留置されていたが、2013年(平成25年)7月に3両全車が水島臨海鉄道へ譲渡される事が決定しました。倉敷駅に到着した7月10日付で廃車となり、JRにおいては廃形式となりました。
以降は東日本旅客鉄道(JR東日本)に3両が、西日本旅客鉄道(JR西日本)に2両が承継されました。2021年現在は水島臨海鉄道がJR東日本からの譲受車3両を保有します。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「鉄道ピクトリアルNo742」