キハ37 1002+1003 更新:2024年8月26日

作者:RRマイスター氏

▢登場時のキハ37(1983年~1987年)
国鉄キハ37形気動車は、1983年(昭和58年)に日本国有鉄道(国鉄)が製造した一般型気動車です。製造量数は5両。5年後の1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化が実施される自体があり、新しくコストパフォーマンスの優れた次世代型エンジンが期待され、国鉄で初めて直噴式過給器を備えた新規の機関(DMF13S形)が開発されました。 車体は全長19500mm,車幅2800mmの旧来からの車体寸法になり、客扉は1000mm幅の2個が変則的に配置されました。ドアと窓配置は1dd7d3で、客ドア直後の戸袋窓はなく700mmの客窓から7個の930mm幅のユニット式窓が並びます。その後はドアがあり、930mmユニット窓が2個連なり700mm窓が最後に来ます。 本製作品は久留里線に配置されたキハ1002,1003をモチーフに製作されました。 1986(昭和61)年にキハ37の後継機=姉妹機のキハ38は新製されましたがキハ37が5台、キハ38も7台と全くの少数派で終わりました。その後の特定地方交通線を転換した第三セクター鉄道に於いてこのDMF13Sと同型エンジンが、第三セクターの為の礎を築いた点で特筆すべき車両といえます。新造時の塗色は赤11号(急行形気動車の窓周りの赤と同じ色)一色で、キハ40系などの在来の一般形気動車に施されていた朱色(朱色5号)とは色合いが異なっています。0番台(便所あり) - キハ37 1(新潟鐵工所), 2(富士重工業)、1000番台(便所無し) - キハ37 1001(新潟鐵工所), 1002, 1003(富士重工業)で製造されました。
▢木更津配置以後のキハ37(1988年~2013年)
木更津配置の3両は、久留里線および木原線で使用され、JR東日本に承継されました。1988年(昭和63年)に木原線は第三セクターのいすみ鉄道に転換されたため、以後、全車が久留里線のみで使用されました。同線専用となったことで、東京湾アクアラインをイメージしてクリーム1号の地色に太さの異なる複数の青15号の帯が入る、初代久留里線色に変更されています。1996年より塗装が2代目久留里線色へと順次変更され、1999年からは冷房化と機関換装が実施されました。また0番台の2については便所が閉鎖されました。 久留里線内では基本的に本形式のみでの運用はなく、キハ38形(1996年に八高線より転入)との共通運用で、キハ30形とも併結して運転されましたが、2012年(平成24年)12月1日をもって久留里線の全車両がキハE130形100番台に置き換えられ、運用を終了しました。 その後、同年12月11日から12日にかけて3両とも新津へ配給輸送され長らく留置されていたが、2013年(平成25年)7月に3両全車が水島臨海鉄道へ譲渡される事が決定しました。倉敷駅に到着した7月10日付で廃車となり、JRにおいては廃形式となりました。 以降は東日本旅客鉄道(JR東日本)に3両が、西日本旅客鉄道(JR西日本)に2両が承継されました。2021年現在は水島臨海鉄道がJR東日本からの譲受車3両を保有します。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「鉄道ピクトリアルNo742」

メディアリンクスのキハ37 2両セット未塗装キットが種車です。当キットは未塗装であるとともにはめ込み窓のサッシドア窓や前面窓のHゴムも未塗装でした。その色差しが難儀です。又プラスティックモールドのために手スリなどの起伏が無いためにタヴァサの手スリを取り付けて立体感を表現しました。又前面のシールドビームのモールドが平板的でのっぺりしていましたのでタヴァサのPN008 シールドビームレンズA を改めてはめ直しました。1002の前面と1003の間通路側にカトー気動車用幌を取り付けました。貫通扉はGMペールブルーに塗装しました。

車体色は赤11号です。GSIクレオスの「シャインレッド」が近似色と言う説もありますが市販には無い色なので朱色4号に赤で調色します。

屋根板はねずみ1号です。

床に目を移すと床板は附属の物を使用しますがトミックスのTN密自連カプラーを取り付けるためには床板を前後を詰めて切断し連結胴受けが車体の前面に面一になるように加工します。又動力ユニットはトミーテックのDT22を使用しました。台車は同じくトミーテックDT22です。現在ではトミックスのユニットが連結器(TNカプラー)の関係で床取り付け用の爪も改めなければ利用できません。これも又アップデイトをして現代によみがえらせる方法です。車番、所属標記、エンドマークなどはキシャ会社を使用しました。インレタ保護のためトップコートを吹き付けました。